言葉では心配して見せても、内心では全く心配なんかしていないということが、単なる雰囲気だけじゃなくそれ以外の行動からも分かっているのに、なぜ私はこの人に話してしまうのだろうといつも思う。分かって貰えないと分かっていても話してしまうのが私の弱いところだし、逆に私も同じようなことを人にしていたりするのだろうし、これ自体はしようがないことなのだと思うが(普通は周囲の人全てを心配している余裕なんてまずないし、そもそもそんなに沢山の人に興味を持てない)、その度に言葉の無力さみたいなものを実感する。
つらさとか悲しさとか大変さとか疲れとか痛みとか、そうしたものは言葉にした途端ザルの隙間から水が零れ落ちるように抜け落ちて決して伝わらない。それはただの事実の羅列と化して「その程度のこと」になってしまう。人に何かを話すときそれが悲しいしつらい。ただただむなしい。それなら話さなければいいじゃんというのはその通りだし、普段は話さないようにしているのだけど、聞かれたり会話の流れから話さざるを得なかったり、自分の弱さからつい漏らしてしまったりもする。
たぶん人の話に共感する為には、その人が話す言葉の意味を理解するだけでは不十分で、(ある体験を)言語化する上で抜け落ちた(その体験に結び付いた)感情や感覚をデコードする為のコーデックとして同じ感情や感覚を持ち合わせていないといけないような気がする。
大して私の話に興味が無い人につらい体験を話してもむなしいだけなのは、相手の中でデコードが行われていないと私が感じるからだろうし、それが「理解されていない」と感じる原因なのだろうと思う。裏を返せば、「理解されている」と感じる時は、感情がデコードされている実感が持てるときだろうし、それは相手に負担を掛けているということなのかも知れない。
(いつものただのどうしようもない心情を綴った日記にするつもりだったのに書いているうちにタイトルからして(タイトルは内容から後で決めた)めっちゃ中二臭い文章になってしまった……)
2017-03-07 追記
しかしながら、結局のところこのようなことを思うのは私の被害妄想に過ぎないのではないかということは常に頭にあります。私が伝わっていないと感じてしまうだけで、相手は十分に理解しているということが当然ありえますし、そのような状況で私がこのようなことを言ってしまうのは、真に心配してくれている相手に対して大変失礼なことなのでしょう。だからこのような無力感を持っているということは、人前に出すべきではないし、そもそもあまり考えないようにすべきなのかも知れません。